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聖地を沸かせた名選手 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<7>宮下典明 新田1990年春準優勝 ミラクル支えた原動力

2018年7月11日(水)(愛媛新聞)

準決勝で8回に同点本塁打を放つ新田・宮下=1990年4月3日、甲子園

準決勝で8回に同点本塁打を放つ新田・宮下=1990年4月3日、甲子園

プロ野球に挑戦できたことを「幸せだった」と語る宮下典明=2月19日、松山市大手町1丁目

プロ野球に挑戦できたことを「幸せだった」と語る宮下典明=2月19日、松山市大手町1丁目

準決勝で8回に同点本塁打を放つ新田・宮下=1990年4月3日、甲子園

準決勝で8回に同点本塁打を放つ新田・宮下=1990年4月3日、甲子園

プロ野球に挑戦できたことを「幸せだった」と語る宮下典明=2月19日、松山市大手町1丁目

プロ野球に挑戦できたことを「幸せだった」と語る宮下典明=2月19日、松山市大手町1丁目

 1990年春の選抜大会。名将・一色俊作に率いられた新田は初出場ながら、強打と鉄壁の守りで快進撃を見せ、決勝まで駒を進めた。迎えた近大付(大阪)との決勝でも互角の戦いを演じたが、チャンスでひと押しが足りず2―5で敗れた。主軸を担った宮下典明(45)=松前町西高柳=は「最後まで負ける気はしていなかった。勝てると思っていたが、そこの気持ちの部分で緩みが出たのかもしれない」と日本一を懸けた激闘を振り返った。

 宮下が輝きを放ったのは2回戦の日大藤沢(神奈川)戦。1―4で迎えた最終回、1死から池田がこの日初めての四球で出塁。「何かが変わった」とナインは相手投手の心境の変化を敏感に感じ取った。松本、堀内が連打で続き2点差に詰め寄る。ここで打席に立った4番宮下は1死一、二塁のチャンスで「とにかく思いっきりいった」と高めに浮いた初球の直球をバックスクリーンにたたき込み、劇的な逆転サヨナラを呼び込んだ。

 「調子が悪かっただけにうれしかった。この一発ですっきりした」。実は甲子園入りしてから体重が4キロ増えるなど調整に苦しみ、万全な状態ではなかった。その様子に気付いた一色は、2回戦を前に大阪市内の接骨院へ連れて行った。マッサージで骨盤のゆがみを直すと、本人も「不思議だった」というほど体のキレが復活。準決勝の北陽(大阪)戦でも八回に同点アーチを放ち、延長十七回に及ぶ死闘を制する原動力となった。

 その年の秋、宮下はプロ野球ドラフト会議で近鉄(現オリックス)から6位指名を受ける。プロ1年目から内外野を問わずさまざまなポジションに挑戦し、1軍昇格、レギュラー獲得に向けて懸命に汗を流した。しかし、4年目に右膝の半月板を痛めるとファームでの出場試合数も減少。95年に自由契約となった。

 当時の気持ちを聞かれると「プロの世界は華やかな面もあるが、そうじゃない一面もある。自分の限界が分かった。何か一つでも残せたものがあればよかったが…」。それでも、小さい頃からの夢だったプロ野球選手になる道を選んだことは後悔していない。「誰もが行けるわけでない世界。行けたことは幸せだったと思う」と力強く語った。

 引退後は、松山市の建設現場の監督や医療機器販売の仕事などを経て、現在は商業施設の内装を請け負う会社に勤める。プロの厳しさを味わったからこそ「仕事で何があっても前向きに捉え、乗り越えていける」。野球で学んだことの全てが今の宮下の土台となっている。(敬称略)

 

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