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2021
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手記は語る

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シベリア抑留記

 冬場は氷点下40度にも至る、極寒の大地。今日も氷の穴に戦友の亡きがらを埋めた。1945年の終戦から始まった抑留生活はいつ終わるとも知れず、シラカバの墓標は年々増えていく。寂しさと飢え、過酷な強制労働の中、帰国への希望だけが心身を支えていた。

 叔父の手記を世に出せないか―。2020年末、上島町岩城の福井敦子さん(79)が、1冊の分厚いノートを差し出した。表紙を開けると筆で「私のシベリア抑留記」としたためられている。整然と並んだ文字の合間に丁寧に書かれたイラストが添えられた手記は148ページに及ぶ。
 執筆者は熊本県出身の元憲兵、故山内忠幸(ペンネーム・文吾)さん。戦後50年の節目にあたる95年に作成し、何度かシベリア抑留の話をするなどなど交流の深かった、めいの福井さんに手渡した。
 戦争体験者の多くがこの世を去り、悲惨な歴史の継承が大きな課題になってきている。「まとめたから読んでみて」と山内さんから福井さんに託されたノート。四半世紀の時を経た今、バトンを受けるような気持ちでページを開いた。



シベリア抑留記

44年4月

 山内さんは憲兵として44年4月、満州(現中国東北部)の北部、ソ連との国境50キロに位置するハイラルに着任した。任務はソ連スパイの取り締まり。中国人やモンゴル人に変装し、街中で不審な行動をするロシア人を尾行したり、取り調べたり。銃撃戦などの戦闘とは縁遠い穏やかな日々が続いた。

45年8月9日

 暗転したのは45年8月9日の朝。日本軍兵舎の庭で竹刀の素振りをしていた山内さんは、遠くかすかに飛行機の爆音を聞く。東の丘から現れたのは、十数機の戦闘機だった。
 「おーい、空襲だ。避難せよ」。誰かが叫んだ。すでに戦闘機は頭上に迫っていた。投下された爆弾が次々と爆発し、地響きを立てながら近づいて来る。とっさに側溝に飛び込み身を伏せると、自分が立っていた場所がはじけた。全ての物を吹き飛ばして通り過ぎていき、近くにいた戦友が犠牲になった。中立条約を結んでいたソ連の攻撃だった。
 山内さんらはその日のうちに、丘陵地帯の陣地へ集められ、戦闘機を迎え撃つことに。ただ、大砲や高射砲などの重火器は別の戦線に運ばれ、排水ポンプや発電機は故障などで動かない。「莫大(ばくだい)な費用と年月をかけて構築された要塞(ようさい)は何の役にも立たなかった」。ソ連の爆撃機は射撃手の顔が見えるほど低空で飛び、爆弾投下や機銃掃射を繰り返す。空に向かって拳銃で撃ち返すが、無駄な抵抗だった。

8月10日

 翌日、山内さんはソ連軍を撃退するために塹壕(ざんごう)内で待機していた。周囲には満州の短い夏を彩る野菊や草木が咲き乱れる。遅かれ早かれ、自分は戦死する。あと何日この草花を見られるだろうか。壕の中で書いた母宛ての手紙に、こう記した。「勝敗は目に見えていますが、1日でも1時間でも敵の攻撃をくい止めて玉砕する覚悟です。親孝行もできないまま先立つ不孝をお許し下さい」。手紙の終わりに、目の前に咲く花を挟んだ。この手紙が届くことはないだろうと思いながら。

8月11日

 ソ連との国境方向から、濃い砂煙が上がっていることに気付いたのは11日だった。時間を追うごとに、戦車十数両が肉眼でも分かるようになり、無限軌道がきしむ音も聞こえてくる。「覚悟を決めていたはずだが、体中に戦慄(せんりつ)が走った」と山内さんが振り返るように、陣地から逃亡する兵士も出始めた。2キロほど離れた地点からは容赦なく砲弾が撃ち込まれる。なすすべはなかった。
 夜間、敵陣に奇襲するも成功したのは初日だけ。誰も帰ってこなかった。日本軍は肉弾戦法で対抗することになった。木箱に火薬を詰めただけの「破甲爆弾」を抱えて戦車の下に飛び込み自爆する。ただ、戦車に被害を与えることは少なく、粉砕されるのは兵士の肉体だけだった。「誰に見送られることもなく、汗と泥に汚れたまま、それが当然のことのように尊い命が散っていった」

8月17日

 「降伏」を告げる玉音放送が流れた8月15日を過ぎても戦闘が続いていた。司令部の発電機の故障で無線機が使えず、ラジオも聞けないので外部の情報を知ることもできなかった。17日午後には、翌朝に全員で玉砕するよう命令が下った。
 山内さんは洗濯した下着に着替え、白米とサバの缶詰を「最後の夕食」として食べた。味わう余裕はなかった。これまでの戦闘で何度も危機一髪のところで命拾いをしてきたが、今は数時間後に迫る死を前に眠ることもできない。目の前で苦しみながら死んでいった仲間の顔が思い浮かぶ。敵兵2、3人を道連れにして即死したい。そう、願った。

8月18日

 敵陣への突入指示を待っていた18日午前3時ごろ、ようやく降伏を知らされた。武器を置き壕を出ると、銃を構えたソ連兵に囲まれた。「命をとりとめた安堵(あんど)感はあったがこれからどのような運命が待っているのか。荒々しいソ連兵を見ると、新たな恐怖が襲った」
 捕虜となった山内さんは、自分の未来がどうなるのかも分からぬまま、戦場で死んだ戦友の埋葬作業などに従事した。奇襲作戦に向かった兵士の遺体が、敵陣近くに点々と転がっている。埋葬前に兵士を識別する番号票を持ち帰ろうとしたが、それすらも許されなかった。

45年9月

 45年9月、貨車でどこかへ移動することになった。「日本に帰れるらしい」とのうわさが流れ、喜んで駅に向かった。車両はすし詰め状態で、あおむけで寝れば肩と肩が重なるほど。
 行き先も知らされぬまま出発して5日目、小窓から見える水面に車内が沸いた。「日本海だ」。山内さんは心を弾ませた。あのうわさは本当だったんだと、停車駅で岸辺に駆け寄り顔を洗う。何かおかしい。手のひらですくって口に運んでみると「塩からくない。真水のようだ」
 貨車が向かっていたのは、祖国とは真逆の方角。目の前に広がるのはバイカル湖だと気づき、絶望した。
 湖を出て7日目の朝、貨車はソ連有数の炭鉱町クラスノヤルスクで止まった。長い冬を迎えようとしているこの町で、強制労働の日々が始まった。

45年9月~

 収容所に着くと体格ごとに労働を割り当てられた。山内さんが命じられたのは炭鉱作業。爆薬で崩した石炭の運搬などが仕事で、地下数百メートルの現場は死の危険と隣り合わせだった。ガス爆発におびえ、実際、落盤で死者も出た。1日働くと顔は炭まみれになり、木片でそぎ落としながら体を洗わなければならなかった。肺も汚れ「吐き出す痰(たん)はいつも真っ黒だった」。
 過酷な労働に対し食事は1日2食。栄養失調は深刻だった。3交代制で朝番の日は午前5時20分に起き、どろどろのおじやと黒パン350グラムを食べると炭鉱へ出発する。作業を終える午後4時には「胃袋の中には一片の固形物も残っていない」。気力だけで収容所に戻ると、夕食のおじやと黒パン300グラムがごちそうに思えた。
 パンの大小を巡り、いさかいも起きた。「皆栄養失調すれすれだったので他人のことを思いやる余裕などなかった」。作業ノルマを達成できないと、さらに食事が減らされた。夕食用にしまっておいたパンが盗まれることもあり「これほどつらいことはない。全身の力が抜けてしまいそうなショックである」と山内さんは回顧する。



 真冬は炭鉱への行き来だけで体力を奪われた。雪がないころは徒歩で約40分だが、積雪が深くなれば1時間以上かかることも多々あった。ふぶけば10メートル先が見えず道に迷うことも。必死の思いで炭鉱に着けど、休む間もなく重労働が待っている。「疲労も極限状態だがここで脱落すれば日本の土を踏むことはできない」
 山内さんは命をつなぐため、落盤事故を装った。5キロほどの岩石を落とした足は赤黒く腫れ上がりひどく痛んだが、約2カ月休むことができた。休息のためには代償が必要だった。
 食べ物を得るため、収容所の裏門越しに住民と物々交換をすることもあった。日本の風呂敷はスカーフ代わりに人気で、寄せ書きをした日の丸さえ喜ばれた。
 環境に対応できない者は次々に息絶えた。特に冬場は死者が相次ぎ、春になると氷の穴に眠る仲間を土に埋め直した。雪や氷の破片を取り除くと「そのままの姿で寒々と横たわり、魂がまださまよっているように感じられた」。

47年ごろ

 シベリア抑留も2年ほどすると、収容所での待遇は少しずつ改善されていった。炭鉱へ通う約40分の道のりは徒歩からトラックに代わり、労働には賃金が支払われるようになった。「抑留者に悪印象を与えたまま帰国させる非をやっと悟ったようであった」と、山内さんは手記の中でそう分析する。
 やがて帰国への希望を胸に楽しみも見いだせるようになった。
その一つが演劇だった。所内勤務の捕虜が炭鉱作業などに疲れた仲間の慰問として始め、やがて演劇や音楽経験者を集めた立派な劇団ができた。食堂や炭鉱での公演には看守らロシア人も訪れ、「金色夜叉」など日本の劇を一緒に楽しんだ。「資本主義的」といった理由で演目が制限されることもあったが、ふるさとをしのぶ貴重なひとときだった。
 ♪ここはシベリア 虜囚の身でも いつかダモイ(帰国)の 時もくる♪
 山内さんが自ら作詞した歌が収容所内で流行したこともあった。過酷な中でも、皆で帰国への決意を高め合った日々だった。

48年8月

 待ち望んだ帰国の知らせは48年8月にやってきた。すぐに戦友が眠るシラカバ林に行き、近くに咲く野花を墓地に備えて帰国を報告した。この日を迎えられずに亡くなった友の無念を考えれば、断腸の思いだった。
 もう二度と訪れないと思えば、苦しみ続けた炭鉱にも惜別の情が湧く。初めてのぞいた炭鉱の食堂では、監督していたロシア人らとウオッカを掲げた。「数年ぶりに飲む酒はダモイの喜びと開放感で心地よく酔った」。出発のホームには、炭鉱で世話になったウクライナ出身の女性も見送りに訪れ、息子を送り出すかのように山内さんの肩を抱きしめて別れを惜しんだ。約3年すごしたクラスノヤルスクを離れ、ソ連極東のナホトカ港に移された。
 港の沖には、日本の国旗を掲げた復員船が停泊していた。久しぶりに見る日の丸に感激し、胸を弾ませながら収容所に入った。あと1週間もすれば、船に乗れるはずだ。そう、簡単に考えていた。

2、3週間後

 2、3週間がたち、ついにその時がやってきた。広場に整列すると、復員船の乗船予定者の名前が読み上げられていく。「はーい」。次々と駆け足で前方に並んでいく元日本兵たち。ただ、山内さんの名前は一向に呼ばれない。同じ憲兵だった仲間もそうだった。「前職が密告されたのではないか…」
 悪い予感は的中した。将校や憲兵、特務機関員は、戦犯として、改めて別の収容所に送られたのだった。船に向かう一群と離れ、自分たちは駅へ誘導されていく。見覚えがある貨車に乗ると「ガチャーン」。外から錠が下ろされた。誰もしゃべらず、物音すらしない。「昨夜までのはなやいだ希望の夢は一転して最悪の事態になったようだ」。夕方には約50キロ離れた炭鉱町のスーチャンに着いた。
 「前の収容所に居た3年間のことは些細(ささい)なことまで覚えているのに、此処(ここ)、スーチャンに来てからのことは1年半近くも居ながらほとんど記憶に残っていない(中略)人間としての感情を失しなはせる位、衝撃が大きかった」

49年12月

 帰国は49年12月にかなった。ナホトカ港から京都の舞鶴まで運んでくれるのは復員船「恵山丸」。7年前に満州に渡る際に乗った船でもあり、不思議な運命を感じた。夢ではない。日本の船の甲板に立っている。シベリア抑留で張り詰めていた気持ちが崩れ去るようだった。
 日本海を進み見えてきた日本の山や森は、荒涼としたシベリアとはまるで違う。いつも夢見た風景。しかし、心の支えだった母国は、現実とは違った。
 当時の日本はレッドパージ(共産党員の公職・企業追放)のまっただ中。政府はシベリア復員者への警戒を強めていた。特に山内さんは収容所で日本人捕虜に対するアクチーブ(共産主義の指導係)をさせられたことがあり、どこに行くにも尾行され、就職も苦労した。心の休まる日は少なかった。

 

 手記の締めくくりは戦友への思いを込めつつ、自分の人生をこう振り返っていた。
 「時代の波に流されながら、大正、昭和、平成と生き延びてきたが、満州の広野に屍(しかばね)をさらし、あるいはシベリアの凍土に裸で埋められた戦友らと比ぶれば細々とした年金生活であっても、暖衣飽食の中で余生を送れることを幸せとせねばなるまい」
 この手記が完成してわずか1年後の96年に、山内さんは73歳で亡くなった。手記は丁寧に書かれた文字から何度も推敲(すいこう)重ねたと推察され、自分の体験をみんなに伝えたいという思いの強さも感じられる。戦火を経験した先人の思いを、令和に生きる私たちはどう受け止めるのか。手記は、見つめている。

 

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