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2021
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松山大空襲の被害(1945年7月26日深夜~27日未明)

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  一夜で数百人が犠牲になった松山大空襲。松山市北持田町の松山測候所(現・松山地方気象台)は被災を免れたが、竹内信正所長(1886~1945年)ら一家7人が亡くなったことは、あまり知られていない。竹内所長の業績や人柄などをしのぶ資料はほとんど残っていないが、遺族の話からは6男3女の子煩悩な父親の一面がうかがえる。

松山測候所長の竹内信正さん(前列左から3人目)ら

松山測候所長の竹内信正さん(前列左から3人目)ら

 気象台の気象官署履歴簿によると、竹内所長は32年4月6日に就任、45年7月26日に「大東亜戦争により死亡」した。柴田秀樹業務・危機管理官(51)は「人事記録は保存年限が経過しているので処分されている可能性が高く、詳しい経歴や業績は分からない」と説明。船本幸二次長(59)は「職場では酒の席も含めて空襲や竹内所長の話を聞いたことがない」と話す。
 竹内家18代当主で竹内所長の孫の卓さん(69)らの話では、竹内所長(享年59歳)、母(77歳)、妻(50歳)、長男の妻(30歳)、孫2人(3歳と0歳)、四男(26歳)が御幸町(現・高砂町4丁目)の自宅敷地内に掘った防空壕に焼夷弾の直撃を受け死亡した。死因などの詳細は不明。四男は高知県の宿毛測候所に勤めていたが、会議で帰省中だった。
 現在、竹内所長を直接知る遺族はいなくなったが、人柄をうかがわせる逸話が伝わる。竹内所長は3姉妹の末娘を早く亡くしたが、残る姉妹と年の離れた実妹を溺愛。なかなか嫁に行かせなかったという。「祖父には会ったことがないので、亡くなった実感もない」という戦後生まれの卓さん。大家族の写真を見詰め、「空襲で死ななければ、祖父に会うことができとったのかも」と独りごちた。

爆撃中のB29

爆撃中のB29(米国立公文書館所蔵)

B29の編隊

B29の編隊(米国立公文書館所蔵)

富士山付近を飛行するB29の編隊

富士山付近を飛行するB29の編隊(米国立公文書館所蔵)

米軍が松山大空襲時にB29から撮影した市街地。

米軍が松山大空襲時にB29から撮影した市街地。赤いペンで線を引き、焼夷弾を落とした順番を示している。白く見えるのは炎で、番号2の線の端付近にある松山商業学校(現・松山商業高校)に迫っている(米国公文書館所蔵)

リトモザイクと呼ばれる写真地図

焼夷弾投下目標を記したリトモザイクと呼ばれる写真地図(米国立公文書館所蔵)

B29の焼夷弾の直撃を受けて死亡した藤東寿美さん(遺族提供)

B29の焼夷弾の直撃を受けて死亡した藤東寿美さん(遺族提供)

 戦争は生き残った人の心にも深い傷を残す。1945年7月26日深夜から翌27日未明にかけての松山大空襲で、松山高等女学校(現・松山南高校)4年生だった藤東寿美(ふじとう・かずみ)さんは15歳で命を落とした。一緒に避難していた叔母の萬里子さんは2011年6月に88歳で息を引き取るまでの約66年間、寿美さんを救えなかったと自責の念にさいなまれ続けていた。
 萬里子さんの長女和子さん(64)=京都市=が、母親から聞いた話などによると、寿美さんは幼少時に両親の離婚で祖母リンさん(萬里子さんの母、故人)に引き取られ、萬里子さんの妹として育てられた。学校の成績もよく、物不足の時代に、学校でもらったおやつをリンさんのために持ち帰るなど、優しい性格だったという。
 大空襲時はリンさん、萬里子さん、寿美さんの3人暮らし。寿美さんは学徒動員先の今治の工場から療養のため松山市萱町1丁目(現・千舟町7丁目)の自宅に戻っていた。その夜、B29約130機による焼夷(しょうい)弾攻撃の中、3人は自宅から西へ避難。線路を渡ってすぐの小川に架かる橋の下に隠れようとしたが、人であふれていたため近くの畑で布団をかぶって並んで横たわった。
 しかし、焼夷弾が寿美さんを直撃。腹は裂け、左のかかとが飛び散った。「痛い。死ぬのはいやや」と繰り返す寿美さん。リンさんは「男の子なら兵隊さんに行って、一人で死んでいかなあかんのよ。姉ちゃんもお母ちゃんもそばにいるし、2人ともすぐに行くからな」と声を掛けた。寿美さんは「もう痛くないよ」と言って息を引き取った。戸籍謄本には27日午前1時、松山市南江戸町で死亡と記されている。
 「寿美が生きていた証しがほしい」。萬里子さんは2004年、松山南高校に電話し教諭で同窓会担当だった安宅理さん(58)=現・吉田高校長=に経緯を説明した。安宅さんが同窓会名簿などに寿美さんの名前を見つけて連絡したのをきっかけに、手紙や電話などでの交流が始まった。
 手紙には萬里子さんの悲痛な思いがつづられている。「飛び出した内臓を『寿美ぃー、死んだらいややー!』と叫びながら押し込んでいた手の感触と絶望感は、生涯私の中から消える事はありません」
「人間のエゴで起こした戦争によって、どれだけの尊い命が消えていったのかと思うと、怒りがこみ上げてきます」

姉妹として育った藤東萬里子さん(右)と寿美さん(藤東和子さん提供)

姉妹として育った藤東萬里子さん(右)と寿美さん(藤東和子さん提供)

 交流を機に、松山南高校の創立120周年記念誌(12年)に、松山大空襲で死亡した生徒として初めて寿美さんが記録された。だが、萬里子さんが記念誌を目にすることはなかった。11年7月26日の松山市戦争犠牲者平和祈念追悼式に初めて参列するため、和子さんと準備中に亡くなった。
 萬里子さんの遺志を継ぎ和子さんは11年から毎年、追悼式に参列。19年には遺族代表として寿美さんの惨禍などを語った。
 和子さんは、萬里子さんが亡くなる数年前に、声を詰まらせながら打ち明けた内容も話した。寿美さんはリンさんをかばおうとしていたこと。恐怖で身がすくみ、自分がやるべきことができなかったこと。目の前で寿美さんを死なせたことを長い間苦しんできたこと。そして「こんな極限のような悲しみは、もう誰にも経験してほしくありません」と会場へ語りかけた。
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今年は追悼式への参列を見合わせる予定の和子さん。「母に罪はないのに、死ぬまで心に深い傷を持ち続けた。公の場で話すかどうか迷ったが、若い人たちにも戦争の怖さや生き残った人の苦しみなどを知ってもらいたかった」と振り返り、「これからも戦争犠牲者らの慰霊とともに、平和に向けた努力を続けたい」と話した。

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