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2021
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モノクロ写真のカラー化

 モノクロ写真のカラー化は、早稲田大理工学術院の石川博教授らの研究チームが開発したものなど、複数の人工知能(AI)技術を組み合わせて活用。この技術を用いて歴史写真の着色に取り組む東京大大学院の渡邉英徳教授に、画像補正を依頼した。
 渡邉教授は、カラー化が若い世代にとって過去を身近に捉える契機となり、世代間の対話を生む点に注目し、マスコミなどと連携した事業に携わってきた。
 最初に写真をAIによって仮着色するが、建物や服装などは実際の色と異なることも多いので、記者が当時を記憶する人々を取材し、可能な限り説得力のある色を目指す。渡邉教授は取材成果や経験を基に、色を補正していった。
 取材は簡単ではなく、鮮明に空襲を記憶する人でも、建物の色や道路の色を聞くと首をかしげる。それでも大街道や女学校の様子など、戦時中の暮らしの断片を聞き取ることができた。今回の紙面が、若い世代に戦争の記憶をつなぐきっかけになればと願う。


写真の中央にあるつまみを左に動かすとモノクロ画像(オリジナル)、右に動かすとカラー化した画像に変わります。

松山大空襲直後
松山大空襲直後_カラー

上の写真は、1945年7月26~27日の松山大空襲の直後に立花橋付近で撮影された松山市街=同市提供

下の写真は、立花橋付近のビル屋上から眺めた現在の松山市街

松山大空襲直後_現在

 軒を連ねた店舗や家屋は一晩で跡形もなくなり、敷地や路地の境界も分からないほどのがれきだ。手前から画面右奥の松山城方面に向けて延びる道は、当時の大街道とみられる。左端の人物は手を腰に当て、ぼうぜんとたたずんでいるようにも見える。
 この写真は松山大空襲の直後に、石手川の立花橋付近から撮影されたと伝わる。所蔵する松山市によると、撮影日、撮影者、入手経緯などは不明という。

中山厚さん

松山大空襲直後の市街写真を見ながら記憶を語る中山厚さん

 「一面灰色。所々に赤茶けたトタンのようなものがあった。木は黒こげだ。一方で城山や堀の内の木々は緑を残していた」。出淵町(現・南堀端町付近)で被災した当時12歳の中山厚さん(86)=松山市東野5丁目=は記憶をたどる。「米軍への憎しみより、生活不安の方が先にあった」と途方に暮れた空襲直後の気持ちを振り返った。
 末広町で被災した当時14歳の米山徹朗さん(88)=北久米町=は「木の燃えさしから、ぶすぶすと煙が出て、翌朝はまだ熱くて町に入れなかった」と回想。2人とも家族の命は助かったものの自宅が全焼。郊外で疎開生活を送った。
 写真には焼け残った建物も確認できる。県庁や松山市役所、裁判所、県立図書館、日本銀行、四国銀行、そして萬翠荘―。西洋建築の官公庁や金融機関が多いのは、木造建築ではないからか。一方、県庁近くにあった松山赤十字病院や番町小学校は跡形もない。
 破壊をもたらしたのは、赤い夜だった。米山さんによると、三津浜方面から複数の米爆撃機B29が飛んできて、順に焼夷(しょうい)弾を落としていった。城山の3倍ほどの上空に見えた機体の両翼は、大火災の反射で真っ赤に染まっていたという。
 「赤い絵の具で描いたように町や家が燃えていた」。日銀松山支店に勤務していた当時20歳の宮内道子さん(94)=松前町浜=の忘れられない光景だ。宮内さんは松山城の堀の中へ飛び込んで難を逃れ、職場だった日銀の大理石の床で眠り込んだ。翌朝、二番町の自宅で逃げ遅れた祖父の遺体と対面することになる。
 写真の焼け野原が戦時中なのか戦後なのかは不明。終戦を迎えたのは、松山大空襲の夜から数えて20日目のことだった。

松山東雲高等女学校の生徒
松山東雲高等女学校の生徒_カラー

 防空壕(ごう)を掘る松山東雲高等女学校(現松山東雲中学・高校)の生徒たちの写真。撮影は1944~45年ごろ。太平洋戦争末期にあって、10代の少女らしいほほ笑みが印象的だ。

松山東雲高等女学校

松山大空襲で焼失した松山東雲高等女学校

 戦時下の東雲女学校は、キリスト教系ながら聖書も読まず、賛美歌も歌わず。軍事教練や勤労奉仕、皇居遥拝も行っていた。
 建学の方針とは異なる教育内容だったが、当時の女学生、吉村真理子さん(92)=松山市高浜1丁目=は、人の心の清らかさや正しさを説く教師の姿に「先生は形だけ軍に従うことで、学校や生徒を守っていたと思う」と受け止めていた。
 当時「敵性語」とされた英語は「県知事の許可を得て習うことができた」。吉村さんのクラスで専攻したのは自身を含め3人だけ。竹やり訓練を冷めた目で眺めて、戦争の行方を悲観的にみるような少女だったという。
 当時の女子の服装について吉村さんは「1年生の時はスカートだったけど、戦争が始まってモンペになった。黒紺に白の伊予絣(かすり)が軍のお勧めイメージ。髪形は三つ編み禁止で二つに縛って…。軍の方のご趣味だと思いますけど」と、手厳しく振り返る。
 卒業は戦局厳しい45年3月。式は開かれなかった。髪形を制限された反動からか、同級生たちは卒業と同時に、一斉に髪をほどいていったという。
 松山大空襲で東雲女学校の建物は正門を残して全焼した。東雲学園の平和記念誌の手記によると、運動場の防空壕に逃れた寄宿生たちは、燃え上がる校舎を泣きながら眺めたとある。
 北藤原町の自宅にいた吉村さんも、焼夷(しょうい)弾が眼前をかすめる中、難を逃れた。

光泉寺
光泉寺_カラー

 太平洋戦争が終わった。松山大空襲から約1カ月がたち、小学2年生だった徳永香さん(81)は疎開先の南吉井村(現・東温市)から汽車で実家の光泉寺(松山市南堀端町)の様子を見に来た。市駅に到着すると、車窓から見える景色は一変していた。寺を含め、在ったはずの家が1軒もない。焼け野原の中に地蔵がぽつんと残っているのが見えた。住職だった父の柳沢諦嶺さん(1901~67年)が実家の方を指さす。「あれがうちのお地蔵さんよ。みんな焼けてしもたけど、お地蔵さんは残った」

光泉寺

光泉寺の地蔵があった場所に立つ徳永香さん(左)と妹の野尻千鶴さん

 徳永さんは父から大空襲の話を聞いた。寺には当時、庫裏の2階に教員10人余りを下宿させていたため、父は45年5月ごろに家族を疎開させた後も寺に残った。大空襲当夜は庫裏や百畳敷きの本堂などに焼夷(しょうい)弾が直撃。父は教員らを近くの松山城の堀に誘導し、布団をかぶった上から互いに水を掛け炎や熱をしのいだ。堀は人で埋め尽くされていた。

 一家は大空襲後の約半年間、焼け落ちた寺の防空壕(ごう)で暮らした。中では寝るだけ。煮炊きなどは外でした。食料不足で、境内に植えたカボチャやサツマイモの実がなる前に茎などをかゆに交ぜて食べた。
 50年ごろまでには自宅や本堂を再建したが、父の跡を継いだ長男(故人)が病気のため住職を辞任。光泉寺は73年、母(故人)の実家の香積寺(東温市田窪)と合併した。同時期に本堂や地蔵などを移転。地蔵は両親らの墓として、妹の野尻千鶴さん(79)らとともに大切に守っている。徳永さんは墓参りのたびに、父のぼうぜんとした姿と言葉を思い出す。「焼け野原に立つ地蔵を見たときの衝撃は今でも忘れられない」

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