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前田伍健

新居の書斎でくつろぐ前田伍健。

新居の書斎でくつろぐ前田伍健。孫の高橋道世さんの話では、ミカン箱を机として使い、板1枚で作った書棚は壊れそうだったという=1956年2月27日(高橋道世さん提供)

 前田伍健(1889~1960年)は香川郡高松(現・高松市)に生まれた。本名は久太郎。前田家は高松藩の足軽の家柄で、父親から書、南画、居合などを教わった。高松中学校(現・香川県立高松高校)から伊予水力電気(現・伊予鉄グループ)坂出支店に入社。大正期に転勤で松山へ移住した。
 川柳を始めたのも大正期とみられる。後に海南新聞(現・愛媛新聞)川柳欄の選者などを務め、全国川柳界の七賢人に選ばれるほどになった。1947年、全国に先駆けて愛媛県川柳文化連盟を結成し、初代会長に就任。指導や普及などに尽力した。野球拳の創始者としても知られる。

前田伍健の自筆の戦災画記2冊と松山市戦災絵巻

前田伍健の自筆の戦災画記2冊と松山市戦災絵巻

 戦災画記は実は2冊ある。前田伍健が親族宅に移った後、1カ月の露天生活の思い出を中心に戦中戦後の暮らしぶりや感じたことなどを走り書きしたもの(縦約33センチ、横約20センチ、全42ページ)と、後日に清書したもの(縦約29センチ、横約21センチ、全62ページ)だ。内容はほぼ同じだが、削除したり加筆したりした部分もある。
 戦災画記から伍健の私的な箇所などを除いてまとめたのが、松山市戦災絵巻(幅約34センチ、長さ約4・5メートル)。伍健が大空襲から10年後の1955年夏に描き、付き合いのあった表具師の中川栄三さん(故人)に59年初秋に贈った。その後、中川さんのおいの明賀祥三さん(83)=東温市=が譲り受けた。

松山市戦災絵巻

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あれから十年
私のスケッチ帖から
ばっすい
昭和二十年
七月二十六日
夜十一時頃の
松山市


二十七日朝
茫々瓦礫の原

残る
町内会長等
正安寺墓地に集会

八月六日
広島の原爆
遠望

だろーーー?

その夜高縄山の
うしろ
火災に染む
今治市へ
襲撃
あり

竹やりで
B29を突く
意気笑うべし
笑うべからず

八月十二日、西山、吉田濱、今出方面爆
撃に黒煙あがる。対空砲はたゞ鳴るのみ

八月十五日
思ひかたきを
忍べの詔勅出づ

ひるは
復員の
兵隊さん
続く

路を
きくが
方角が
立たぬ

夜は
鬼火
めらめら

その当時の家

焼木利用

くずれ

利用






焼けトタン
囲い





ムシロ囲い

避難街道の人々

はすの葉の笠

ガラガラ車に
ナベ、カマ入れて

やれ暑い

南無あみ
だぶつ

ケガした人

もう少しだ
しんぼうしな

おち
ゆく

避難だ

乗り
きれぬ
乗り
もの

お金 下駄
めし

たばこ
配給品へ
行列

預金貯金は
心配するな
救いの手は
のびる安心せよ
いろいろの
はり紙

再会のよろこび
「無事祝う
おたがいさまの
ちび草履」

カサ クツ
カマ ナベ 机 紙 タバコ
下駄 ノコ カミソリ
その当時欲しかったもの
お菓子 くすり しょうゆ

買い出しの苦労

イモ
カボチャは
上等の
うち

一つまみの
砂糖は
貴重品

十月二十一日
連合軍
上陸

十月十日
台風水害

二拾
一年
十二月
二十一日
南海震災

道後
温泉

転禍為福

世はうつるさても
よい夢わるい夢

昭和三十年夏日
川柳人 伍健画

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七転八起

由来加起
一、この絵巻は当時カメラも報道の
機會も至難の時代にて後年何かの参
考記念にもと思いわがスケッチ帖より撰
出まとめしもの
一、この絵巻と大同小異のもの図書館
と松山市庁にあり(故伊予史談会の
田中七三郎氏の懇情により執筆)
一、あれから十年の題は昭和三十年夏
本巻をかきし為めなり
一、本巻は故ありて名表具師たる
中川氏へ贈る
昭和三十四年初秋佳日
伍健

画像は右にスクロールできます。

あれから十年
私のスケッチ帖から
ばっすい
昭和二十年
七月二十六日
夜十一時頃の
松山市

翌 二十七日朝
茫々 瓦礫の原

残る町内会長等
正安寺墓地に
集会

八月六日 広島の原爆
遠望 何だろーーー?

その夜高縄山の うしろ 火災に染む
今治市へ 襲撃 あり

竹やりでB29を突く
意気笑うべし
笑うべからず

八月十二日、西山、吉田濱、今出方面爆
撃に黒煙あがる。対空砲はたゞ鳴るのみ

八月十五日 思ひかたきを
忍べの詔勅出づ

ひるは復員の兵隊さん続く

夜は鬼火めらめら

路をきくが方角が立たぬ

その当時の家

焼木利用
焼けトタン囲い
防空壕利用
ムシロ囲い
くずれ塀利用
濠端の垣利用

避難街道の人々

はすの葉の笠
ガラガラ車にナベ、カマ入れて
やれ暑い
南無あみだぶつ~

ケガした人
もう少しだしんぼうしな
おちゆく先は

避難だ~
乗りきれぬ乗りもの

お金 下駄 めし
たばこ配給品へ行列

預金貯金は心配するな
救いの手はのびる安心せよ
いろいろのはり紙

再会のよろこび
「無事祝うおたがいさまのちび草履」

カサ クツ カマ ナベ 机 紙 タバコ
下駄 ノコ カミソリ
その当時欲しかったもの
お菓子 くすり しょうゆ

買い出しの苦労

イモ カボチャは上等のうち

一つまみの砂糖は貴重品

十月二十一日 連合軍上陸

十月十日 台風水害

二拾一年 十二月 二十一日 南海震災

道後温泉異変

転禍為福

世はうつるさても
よい夢わるい夢

昭和三十年夏日
川柳人 伍健画

由来加起

一、この絵巻は当時カメラも報道の
機會も至難の時代にて後年何かの参
考記念にもと思いわがスケッチ帖より撰
出まとめしもの

一、この絵巻と大同小異のもの図書館
と松山市庁にあり(故伊予史談会の
田中七三郎氏の懇情により執筆)

一、あれから十年の題は昭和三十年夏
本巻をかきし為めなり
一、本巻は故ありて名表具師たる
中川氏へ贈る

昭和三十四年初秋佳日

伍健

七転八起

前田伍健が1945年7月26日深夜から翌27日未明にかけての松山大空襲の様子や被害を記した1冊目の「戦災画記」のページ(高橋道世さん所蔵)

 数百人以上の命が奪われた1945年7月26日深夜から27日未明にかけての松山大空襲。上空には米軍のB29爆撃機約130機が飛来し、ゼリー状の粗製ガソリンなどを詰めた焼夷(しょうい)弾を計約813トン投下した。後に前田伍健が「火の雨、鉄の雨」と記したこの攻撃で、市街地は一夜にして焦土と化した。
 松山市真砂町の伍健の家も例外ではない。5人家族(全員故人)だが、長男の欣一さんは軍隊へ。次女の鎮世さんは挺身(ていしん)隊の一員として今治にいたため、大空襲に遭遇したのは伍健、妻の真千枝さん、長女の耀子さんの3人だった。
 欣一さんの長女で伍健の孫に当たる高橋道世さん(64)が、真千枝さんや母親らから聞いた話によると、焼夷弾が落ちた隣家から火が燃え移った。当初、3人で消火を試みたが、手に負えず、伍健の「川に飛び込め」の号令でそばの小川に入り、ぬれ布団をかぶって猛火に耐えた。

死ぬならばこゝでと親子はらをきめ

 大空襲やその後の露天生活などを絵と文で克明に記録した「戦災画記」で伍健は、このときの心情をそう詠んでいる。

松山大空襲当夜の前田家の様子を記録した1冊目の「戦災画記」のページ(高橋道世さん所蔵)

松山大空襲当夜の前田家の様子を記録した1冊目の「戦災画記」のページ(高橋道世さん所蔵)

松山大空襲後の焼け跡の惨状などを記録した1冊目の「戦災画記」のページ(高橋道世さん所蔵)

松山大空襲後の焼け跡の惨状などを記録した1冊目の「戦災画記」のページ(高橋道世さん所蔵)

 別のページには、伍健が家財を持ち出す頃には火が天井に回り、父の写真や自身の肖像画、書棚、たんすなど何もかも猛炎に包まれたことが記され「焼夷弾の凄(すご)さバケツでは策もなし」などと続く。
 夜が明けた27日のページには、焼け残った自宅の板塀に竹ざおを渡して瓦を敷き、すだれで覆って寝床にしたことや、暗闇の中で風呂敷をかぶって蚊の大群を防ぎ、3人で野宿生活の第一歩を踏み出したことなどを書き残している。
 真夏の1カ月の露天生活は過酷だったようだ。
 晴れの日は一家総出で焼け跡を整理し、雨の日は休む。65キロ前後だった伍健の体重は約41キロまで落ちた。「これのみ これのみ 忍 これのみの日を送る」。8月27日から旧余土村(現・松山市)の親族宅に身を寄せ、「畳の上のありがたさ」とつづり、親族や友人らの親切や支援に涙がこぼれて仕方がない程だったと回顧している。

 眞心へフト泣けてくる虫の秋

 清書した戦災画記の最後の2ページには、49年3月6日に家族5人そろって新居に復帰したこととともに「急がず強かず 牛の如く 静にしっかりと 歩むべし 其所に幸福は待つ」と添え、「子孫へ傳ふべき 前田家蔵書 伍健記」と締めくくっている。  戦後75年の2020年は、伍健の没後60年でもある。戦災画記を所蔵する高橋さんは「若い人が興味を持ってくれるか疑問もあるが、祖父の記録や思いが後世にも伝わることを願っている」と話す。

家族5人そろって新居に復帰したことなどを記した清書版の「戦災画記」の最後の2ページ(高橋道世さん所蔵)

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